こぶー休息中!

引っ越して来ました。おばブーの旅(主に香港)と映画の日々。

静かなるヴィクトリアハーバーで2024年を想う

9月からいろいろなことを詰め込んで、駆け抜けるように今年が終わっていきます。

12月上旬に、夏のHongkong International Airportのキャンペーンでゲットしたエアチケットで、香港に行って来ました。

 

尖沙咀九龍半島の先から、Victoria Harbar、香港島の中環のビル群を臨むこの場所。ここから見る風景は、日々刻々、天候や季節、そしてもちろん時の経過とともに変わっていきます。

この日のVictoria Harbarは、波も穏やかで、冬とは思えぬ暖かさ。どこか静かな港を眺めていました。

夜景もね、週末はたくさんの人が集まっているのですが、香港島のビルのライトアップが以前よりどこか物静かな感じがする。

 

12月〜旧正月にかけては、街中のネオン、ライトアップ、ディスプレーが華やかです。

 

Salisbery Rd.沿の1881や半島酒店(Peninsula)は元々上品な感じではありましたが、キラキラ度は控えめ。

 

滞在中に久々に会った香港人の友人によれば、香港の夜は暗くなったそうです。年齢のせいもあるかもしれないけど、夜運転してると標識が見にくいとか。彼女曰く、LEDが主流になったからだということですが。

 

もう一方で、名物、道路にかぶさるようなネオンサインは、8割方撤去されたということを聞き及びました。

今や、美術館のガラスの向こうに存在するものとなりました。

50代半ばにして完全リタイアし、今の香港で自分の人生を謳歌している彼女には、通り過ぎてゆく旅行者のセンチメンタリズムは通用しないでしょうね。

 

さまざまなところの人と思いが交差する香港。来年は何をするか、この先どうするか、どんな写真を撮るかのヒントになりそうです。

弾丸旅 三峡と台北の街で構想を練る

二週間ほど前、弾丸台湾旅に行って来ました。朝5時台の便で8時台着。7年ぶりの台湾は、滞在時間12時間となりました

この数年の状況で、香港や台湾に行くというと、大丈夫?とか緊迫感ある?とか聞かれるようになりました。世界情勢は確かに変化をしており、両地の置かれる状況も変わってしまいました。でも、とくに政治的な行動をしているわけでもないので、何も入出国には問題なく、日本と同様、治安の良い街を朝から夕刻まで動き回って来ました。

桃園空港から、台北駅〜西門町〜鶯歌〜三峡〜山佳と回って、台北駅に戻り、桃園空港より帰国。あまり台北の街は歩き回ったわけではないのですが、既視感か、過去に戻ったか、自分がどこにいるのかと思うことがありました。

 

ここはどこ?台北の地下街。マツキヨやミスド、などなど、日本の店舗が多く進出しています。以前より、台湾の方々には日本の製品が好評ですが、それ以上に日本の企業は、国内市場が縮小していく中で、利益を上げるためには海外進出をせざるを得ないという事情もあるようです。それにしても、こんなに多く日本の店舗が進出しているとはねえ。

 

さて、ここは?西門町入口。渋谷のセンター街と見まごう街ですが、丁度アニメがらみのイベントの準備中で、コスプレの人たちが大勢いました。地下鉄駅内を見ても、アニメやゲーム、ちょっと違和感のある日本名のアイドル(?)などの広告が。台北地下街の企業進出とは違い、日本文化というか(日本人のおばちゃんには馴染みのない)サブカルの進出の場となっていました。

私がここに集まる彼らぐらいの年だったころ、日本の企業進出といえば自動車や電子機器メーカーといったところでした。今や台湾の半導体メーカーが日本に工場を作るぐらいですから、情勢の変化を痛感せざるを得ません。

さて、ここは三峡老街。淡水に流れる3本の川が合流するこの地に客家の人々が定住し、樟脳、染色、布、木材、お茶の交易で栄えた街です。100年程前、日本統治時代に赤煉瓦の街並みが完成したそうです。店の看板に"呉服店”と書いてあります。過去の日本進出の跡がこんな風に残されています。

弾丸が土地の表面をかすめたような旅でしたので、写真もイマイチ撮りきれず。次に台湾に行くときは、もう少し時間をかけて掘り下げて、周りたいと思います。

でも、次の写真の構想のヒントになったかな。都市の物語、撮ります。

 

写真から、遠い夏と繋がりを思う

この夏、伯母が亡くなった。子供の頃、この伯母と母方の実家がある海辺の町で、夏の長い間を過ごした。

よく海水浴に出かけた海は、夏になると海の家が出て海水浴客で賑わっていたが、この夏の終わりに訪れた海岸は、ひっそりとしていた。

ビニールのマットで波乗りをしたり、ただただ寄せては返す波を眺めたりた海。波と潮流は延々と続くが、同じ形であることはない。海の色も同じであることはない。

楽しい夏の時間は毎年間違いなくやって来て、潮の満ち引きのように毎年訪れる永遠に続くように思われた。しかし、いつの間にかその夏の時間はとぎれ、海の泡のように消えてしまった。

 

お葬式の時、従兄が見せてくれた伯母の若い頃の写真のなかに、伯母の叔父の妻である、ウチの祖母が写っていた。お正月に日本髪を結って、東京の親戚の何人かと二重橋前でとった写真だった。

以前伯母に、叔父さん夫婦には子供の頃から可愛がられたのよ、という話を聞いたことを思い出した。新婚旅行までついて行ったという。

従兄姉たちは、全くそのことを知らなかったし、語ることのできる兄弟姉妹もみんな亡くなってしまった。

しかし、残された一枚の写真が語り始めた。節目の夏に、写真が遠くなった記憶をつなぎ合わせた。

その夫婦には子供がなく、伯母の弟である私の父が養子に入った。

父は伯母の子供たちを可愛がった。東京に来るたびに泊めてもらたり、おしゃれな洋服などをお土産にもらったりしたという。そして、伯母はわたしたちを可愛がってくれた。

伯母の家から、毎日海に通った。大人たちの間では、色々複雑なことがあっただろう。でも、私と弟はただただ無心に夏を楽しんだ。

寄せては返す波のような、人の繋がり。煌めく夏の思い出。

 

 

 

 

 

ソール・ライターと平間至で 自分の立ち位置を考える

終了間際のソールライターの原点展と平間至の写真の歌展を、平日の夜にいっぺんに見た。

仕事帰りに、固まった脳を全く違うことに使うのは、いいかもしれない。

 

二人とも商業写真を撮りながら、全くアプローチの違う写真を撮っている。

 

ソール・ライターは、元々絵を描きたかった人だ。ニューヨークの街の写真では、人々はanonymousで、都市風景の一部となっているように見える。

彼は言う、"有名人を撮ったからって、良い写真になるとは限らない”。”わざわざ遠くに行かなくても、面白いものは近くにある”

 

平間至の写真では、被写体のキャラクターありきだ。そのキャラクターのうえに、別のキャラクターを纏わせていたりする。強烈な個性。そして、音楽がある。

No life, No music. 渋谷に行って、タワーレコードを上から下まで歩き回るあの高揚感。ちょっと切ない思い出が蘇る。

 

自分が志向しているものは何か。写真論とか、芸術論とか、社会貢献とか、自分の立ち位置がこれからどう変わるか、色々考えるとこれから先、五里霧中のようでもある。

でも、ソール・ライターは言う。"人生には、それぞれに美を追求する価値がある。そのことを否定したくない”。

香港事情 2023 香港文化博物館にて

今回の香港滞在では、何となく街や人が静かだと感じていたのですが、美術館とか博物館、ギャラリーなどにいくことが多かったせいかもしれません。

香港文化博物館がある沙田は、新界地区の郊外。このブログを始めた頃、中文大学の語学研修で大学の宿舎に滞在していた頃によく行ってたところです。十数年ぶりの沙田は、物や風景の密度が上がった感じがありました。でも何となく人が静かという印象は拭えませんでした。

粤劇、金庸、電影などなど、常設・特別を含めて様々な香港文化の展示があり、ここもじっくり半日ぐらいみさせていただきました。

今年はレスリー・チャン(張国榮)20 years Memorial。特別展示がありました。ブルース・リー李小龍)も50 years memorial。もちろん、香港映画の歴史に関する展示もあり。映画の美術や服飾などが取り上げられた特別展示もあり、非常に興味深く、華やかなりし頃の香港映画の制作の様子をみることができました。

M+でも香港文化博物館でも、スタッフの人から広東語で話しかけられることが多かったです。4年前は、どこへ行っても普通語で話しかけられられたのに。

大陸の観光客がまだそれほど戻って来ていないということもあるかもしれません。こういった場所には、外国人や大陸の方がくるモティベーションがなかったからかもしれません。

華やかなりし頃のこの場所にいた人たちは、その中にノスタルジアを見ているのでしょうか、それとも他の何かを。


 

香港事情 2023 M+

4年3ヶ月ぶりの香港滞在。遅くなりましたが少しづづアップしていきます。

今回の訪港では、街歩きや食べ歩きをそこそこに、2021に開館したM+や 香港文化博物館、写真のGarellyなどを回ることに時間をかけました。香港の今を見るために。

さて、M+。NHK日曜美術館でも取り上げられたこの施設は、アジアでも最大といえる規模で現代美術を取り扱っています。

香港を中心として、中国から周辺アジア、ユーラシアへと広がる作品は、コンテンポラリーアート、建築、インテリアやインダストリアルデザイン、グラフィックアートまでに広がっています。

ワークショップも行われ、触れたり参加したり、インタラクティブな展示もあり。そんなところが+という所以でもあるのでしょう。

日本人の作品や製品の展示も数多くあり、それらのものが香港やアジアの人たちがどのように受け止め、自分達の中に置いていったか。そんな視点でものを見ていくことは、本当に刺激的でした。

思った以上に、香港やアジアの人たちは日本のことを知ってるのだと思います。

ちょうど、草間彌生の大きな展示がありました。吹き抜けのところと、水玉のガラスの迷路。香港で草間彌生作品に出会うのは2度目。縁があるのかもしれません。

 

アイ・ウェイウェイのような、当局から反体制的とみなされた作家の作品を展示することに関しては、議論もあったようです。直接的とは言えないけれど、そういった作家の作品も展示されています。プロパガンダ作品と同じ時期に制作された、当時は作品として認められなかったような心象的な作品が同じ場所に展示されているのを見ると、この場所の価値を実感します。

香港ならではの、作品も、もちろん数多くあります。
九龍皇帝、ガラスの向こうの失われつつある香港のネオン、色を失ったランプシェード。

それらは、失われた世界から守られているのか、囲われているのか。

アート作品と社会のせめぎ合いは、今後も続いていくのでしょうか。

アジアの辺境からユーラシアの時と人の流れを思う

先場所優勝したモンゴル人関取のインタビューで、”遊牧民のご家庭の出身と伺いましたが、どのような生活を”という質問に”お休みの時におじいちゃんのところで馬に乗ったり”という答えを返していました。

今や、遊牧民の子供は学校に通うために親と一緒に都会で生活をしているのだという事実は、日本人には知られておらず、インタビューをしたアナウンサーにしてみれば、少年が日常馬で草原を駆け巡っている図を想像していたのではないかと思います。

もちろん、騎馬により彼の体幹が鍛えられていたことには間違いないですが。

先日伺ったハウリンバヤルという在日モンゴル人の方々が主催のイベントで、少年たちのモンゴル相撲を見ました。見た目は日本人と変わらないけど、日本育ちで馬に乗ることもないだろうけど、逞しくみえたのは遊牧で歴史をつくってきたモンゴル人の遺伝子と誇りではないでしょうか。

以前の記事にも書きましたが、騎馬を始めたのはスキタイという人々で、匈奴にその技術をもたらし、遊牧民が騎馬遊牧民となってユーラシアに広がっていったようです。スキタイの技術は金属加工にも及びます。

昨年から今年の初頭にかけて読書会で読んでいた「オデュッセイア」の中で、オデュッセウスの弓の注釈に、スキタイの弓という記述がありました。

広大な土地・距離という横軸と、時間という縦軸。様々な技術が様々な人々の手を経て、大陸の東西に広がっていったのです。そんなことを想像してると、旅をしたくなりますねえ。

ちょっと話しがかわりますが、同じ読書会でギリシャ神話がらみでMadeline Miller の"Song of Achilles"を面白く読ませていいただきました。創作とはいえ、「イリアス」に絡む人物や神々が軸になり、個々のキャラクターが現代の我々にも見えてくる。

ちょっと気になったのはCeder of Eastを日本語訳(「アキレウスの歌」訳 川副智子)のほうでは”ヒマラヤ杉”としていたところ。古代ギリシャにおいて、”東方の杉”がヒマラヤを指すのかどうか。ヒマラヤというサンスクリットからきた地名がその時代に使われるべき言葉なのかどうか。

古代ギリシアから見て東だとレバノン杉あたりが妥当かもしれませんが、レバノンという言葉も違うかもしれませんね。

これも、横軸と縦軸。その位置的関係や時代にあう言葉を探し、今の時代でもわかるようにする。文芸翻訳っていうのも難しいですねえ。